3代目の珈琲見聞録

私が「普通のコーヒーと変わらないデカフェ」を焼き続ける理由

私が「普通のコーヒーと変わらないデカフェ」を焼き続ける理由

77年の伝統と、大切な妻への一杯。 ── 私が「普通のコーヒーと変わらないデカフェ」を焼き続ける理由 第一章:三代続く焙煎機の音と、変わらない日常 私たち澤井コーヒー本店の物語は、1948年(昭和23年)、戦後間もない混沌とした時代から始まります。初代が街の片隅で小さな焙煎所を構えて以来、私たちは三代にわたってコーヒーの香りを絶やすことなく守り続けてきました。 店舗に鎮座する焙煎機は、長年使い込まれ、まるで私たち家族の一員のような顔をしています。毎朝、火を入れ、釜が温まるのを待ち、生豆を投入する。パチパチと豆が爆ぜる音を聞きながら、豆が発するわずかな香りの変化を敏感に感じ取る。その繰り返しの毎日が、私たちの誇りでした。 コーヒーは、ただの飲み物ではありません。それは、誰かの朝を彩り、誰かの仕事の合間の句読点になり、誰かと誰かの会話を弾ませる。そんな「日常の幸せ」を支えているという自負が、私たちを突き動かしてきました。しかし、そんな当たり前だと思っていた日常が、ある日突然なくなってしまったのです。 第二章:コーヒー屋の妻が、コーヒーを飲めなくなった日 私の妻は、コーヒー好きでした。甘いものと一緒に飲む一杯のコーヒーを、彼女は何よりも楽しみにしていました。 ところが数年前、彼女の体に異変が起きました。 好きだったはずのコーヒーを飲むと、動悸がし、夜も眠れず、体調を崩してしまうようになったのです。「カフェインを摂取できない体質」への変化でした。 「コーヒー屋の妻なのに、もうコーヒーが飲めないなんて」 寂しそうに笑いながら、一緒にいったカフェで彼女はオレンジジュースを飲んでいました。私が焙煎する香ばしい匂いが家中に立ち込めるたび、彼女はそれを愛おしそうに嗅ぎながらも、決して口にすることはありませんでした。一番近くにいる大切な人が「コーヒーを楽しむ」という何気ない喜びから疎外されている。その姿を見るのは、夫として、そして一人の焙煎士として、あまりにも辛い出来事でした。 「もう一度、心から美味しいと思えるコーヒーを彼女に飲んでほしい。もう一度、二人で同じ香りを分かち合い、美味しいねと笑い合いたい」 その切実な願いから、私は新しい挑戦をすることにしました。それが、当店の「デカフェ(カフェインレス)」開発の始まりでした。 第三章:77年のプライドをかけた、デカフェの焙煎 当時のデカフェに対する世間の評価は、決して高いものではありませんでした。「味が薄い」「独特の薬のような臭いがする」「物足りない」。実際に取り寄せて飲んでみても、私たちが理想とする「コーヒーの喜び」からは程遠いものばかりでした。 「カフェインレスだから、味が落ちるのは仕方ない」 世間のそんな常識を、私はどうしても受け入れることができませんでした。妻が飲みたがっているのは「カフェインの入っていない飲み物」ではなく、「心から美味しいと思える、あの頃のコーヒー」だったからです。 しかし、いざ自分でデカフェの焙煎を始めてみると、そこには想像を超える困難が待ち受けていました。 デカフェの豆は、カフェインを抽出する過程で一度水分を含ませ、乾燥させています。そのため、通常の生豆とは細胞の構造が全く異なります。火を入れれば、通常の豆よりも早く表面が焦げ始め、かと思えば芯まで熱が通らず、生焼けのようなエグみが残ってしまう。 77年かけて培ってきたはずの「焙煎の定石」が、デカフェの前ではことごとく打ち砕かれました。 来る日も来る日も、焙煎機の前に立ち、豆の表情を凝視しました。火加減を1度単位で調整し、排気のタイミングを秒単位で変えてみる。焙煎してはカッピングし、納得がいかなければすべて廃棄する。そんな日々が数ヶ月続きました。 私を救ったのは、やはり77年という歳月が教えてくれた「感覚」でした。 機械の数値だけでは測れない、豆が爆ぜる音の高さやリズム、豆から発するツンとした香りが柔らかく変わる瞬間。三代にわたって受け継いできた職人の勘をすべて研ぎ澄まし、デカフェ豆が持つ「コーヒー本来の味」をようやく見つけ出したのです。 焼き上がった豆を挽き、丁寧にドリップして妻の前に差し出しました。 一口含んだ彼女の顔が、ぱっと輝いたあの瞬間のことを、私は一生忘れません。 「これ、本当にカフェインレス? 」  その言葉を聞いたとき、私は深く安堵しました。77年の技術が、ようやく大切な人の笑顔を取り戻したのです。...

私が「普通のコーヒーと変わらないデカフェ」を焼き続ける理由

77年の伝統と、大切な妻への一杯。 ── 私が「普通のコーヒーと変わらないデカフェ」を焼き続ける理由 第一章:三代続く焙煎機の音と、変わらない日常 私たち澤井コーヒー本店の物語は、1948年(昭和23年)、戦後間もない混沌とした時代から始まります。初代が街の片隅で小さな焙煎所を構えて以来、私たちは三代にわたってコーヒーの香りを絶やすことなく守り続けてきました。 店舗に鎮座する焙煎機は、長年使い込まれ、まるで私たち家族の一員のような顔をしています。毎朝、火を入れ、釜が温まるのを待ち、生豆を投入する。パチパチと豆が爆ぜる音を聞きながら、豆が発するわずかな香りの変化を敏感に感じ取る。その繰り返しの毎日が、私たちの誇りでした。 コーヒーは、ただの飲み物ではありません。それは、誰かの朝を彩り、誰かの仕事の合間の句読点になり、誰かと誰かの会話を弾ませる。そんな「日常の幸せ」を支えているという自負が、私たちを突き動かしてきました。しかし、そんな当たり前だと思っていた日常が、ある日突然なくなってしまったのです。 第二章:コーヒー屋の妻が、コーヒーを飲めなくなった日 私の妻は、コーヒー好きでした。甘いものと一緒に飲む一杯のコーヒーを、彼女は何よりも楽しみにしていました。 ところが数年前、彼女の体に異変が起きました。 好きだったはずのコーヒーを飲むと、動悸がし、夜も眠れず、体調を崩してしまうようになったのです。「カフェインを摂取できない体質」への変化でした。 「コーヒー屋の妻なのに、もうコーヒーが飲めないなんて」 寂しそうに笑いながら、一緒にいったカフェで彼女はオレンジジュースを飲んでいました。私が焙煎する香ばしい匂いが家中に立ち込めるたび、彼女はそれを愛おしそうに嗅ぎながらも、決して口にすることはありませんでした。一番近くにいる大切な人が「コーヒーを楽しむ」という何気ない喜びから疎外されている。その姿を見るのは、夫として、そして一人の焙煎士として、あまりにも辛い出来事でした。 「もう一度、心から美味しいと思えるコーヒーを彼女に飲んでほしい。もう一度、二人で同じ香りを分かち合い、美味しいねと笑い合いたい」 その切実な願いから、私は新しい挑戦をすることにしました。それが、当店の「デカフェ(カフェインレス)」開発の始まりでした。 第三章:77年のプライドをかけた、デカフェの焙煎 当時のデカフェに対する世間の評価は、決して高いものではありませんでした。「味が薄い」「独特の薬のような臭いがする」「物足りない」。実際に取り寄せて飲んでみても、私たちが理想とする「コーヒーの喜び」からは程遠いものばかりでした。 「カフェインレスだから、味が落ちるのは仕方ない」 世間のそんな常識を、私はどうしても受け入れることができませんでした。妻が飲みたがっているのは「カフェインの入っていない飲み物」ではなく、「心から美味しいと思える、あの頃のコーヒー」だったからです。 しかし、いざ自分でデカフェの焙煎を始めてみると、そこには想像を超える困難が待ち受けていました。 デカフェの豆は、カフェインを抽出する過程で一度水分を含ませ、乾燥させています。そのため、通常の生豆とは細胞の構造が全く異なります。火を入れれば、通常の豆よりも早く表面が焦げ始め、かと思えば芯まで熱が通らず、生焼けのようなエグみが残ってしまう。 77年かけて培ってきたはずの「焙煎の定石」が、デカフェの前ではことごとく打ち砕かれました。 来る日も来る日も、焙煎機の前に立ち、豆の表情を凝視しました。火加減を1度単位で調整し、排気のタイミングを秒単位で変えてみる。焙煎してはカッピングし、納得がいかなければすべて廃棄する。そんな日々が数ヶ月続きました。 私を救ったのは、やはり77年という歳月が教えてくれた「感覚」でした。 機械の数値だけでは測れない、豆が爆ぜる音の高さやリズム、豆から発するツンとした香りが柔らかく変わる瞬間。三代にわたって受け継いできた職人の勘をすべて研ぎ澄まし、デカフェ豆が持つ「コーヒー本来の味」をようやく見つけ出したのです。 焼き上がった豆を挽き、丁寧にドリップして妻の前に差し出しました。 一口含んだ彼女の顔が、ぱっと輝いたあの瞬間のことを、私は一生忘れません。 「これ、本当にカフェインレス? 」  その言葉を聞いたとき、私は深く安堵しました。77年の技術が、ようやく大切な人の笑顔を取り戻したのです。...

コーヒーを604杯淹れた日 (珈琲博覧日2025 出店の記録)

コーヒーを604杯淹れた日 (珈琲博覧日2025 出店の記録)

2025年11月3日(月・祝)私たち澤井コーヒー本店は東海地区最大級のコーヒーフェス「珈琲博覧日2025」に出店し、10時~17時の7時間で604杯のコーヒーをご提供することができました。(ホット 576杯+アイス28杯) 自分たちもビックリな数字で、寒い中並んでコーヒーを買ってくださったお客さまや、珈琲博覧日の運営の皆さんに本当に感謝です。(公式に杯数は発表されませんが、聞いたところ出店者で最多杯数のようです) 杯数や売上など数字がすべてではないですが、やはりたくさんの方に飲んでいただけたことは嬉しく、去年よりお客さまとコミュニケーションがとれたことも含め楽しい思い出になりました。 noteはしばらく書いてなかったのですが、せっかくなので今回の珈琲博覧日を一出店者視点で振り返ってみたいと思います。 珈琲博覧日(はくらんび)とは? 名古屋市中区の久屋大通公園(Hisaya-odori Park シバフヒロバ+ケヤキヒロバ)に、東海地方の珈琲屋さんが大集合する1年で1日だけのイベント。4回目の開催となる今年は31店舗の珈琲屋さんが大集合しました。 昨年の初出店での反省 今年の「珈琲博覧日2025」は私たちにとって2度目の出店。昨年が初出店でした。 昨年もたくさんの方に来ていただいたのですが、とにかく待ち時間が長くなってしまったことが昨年のイベントを終えての大反省点でした。2杯ずつコーヒー淹れていたので、淹れても淹れても追いつかない状況。野外イベント自体が初めてという経験値の低さもあり、正直もう訳が分からなくなっていました(笑)。 しかもコーヒーを淹れることに必死すぎて、せっかく来てくれたお客さまとお話することもできず・・・。昨年はずっと怖い顔してコーヒー淹れてたと思います。 今年のテーマ「一度にたくさん&見てて楽しい」 珈琲博覧日2025で披露したネルドリップ 珈琲博覧日2024を経験して、今年の珈琲博覧日2025は「大量の珈琲を一度に淹れられる&お客さまが見て楽しめる方法」を考えました。一番手っ取り早いのは、マシンで大量に淹れることなんですが、せっかくの珈琲博覧日にマシンで淹れてポットから注いで “はいどうぞ” では味気ないし、淹れてる自分も楽しくないので。 そんな時、うちの在庫にあったこれが目に入りました。 これ、ネルフィルターなんです。しかも特大の特注品。私たちが喫茶店さんに卸している大型のネルフィルター。昭和時代に開業した喫茶店さんでは、馴染みのあるドリップ方法で、一部の喫茶店さんではいまでも現役。フィルターも定期的に仕入れているので、うちに大量の在庫がありました。 昭和23年創業の私たちだからできる昭和喫茶店式のネルドリップ。これなら一度に12杯淹れられる。しかもライブ感があって見ても楽しんでもらえる。 今年の博覧日はネルドリップに挑戦することが決まりました。2025年の春のことです。 大きなネルフィルターで淹れると香りの立ち方がすごい 準備編:ネルドリップ大変すぎ! 12杯淹れの昭和喫茶店式ネルドリップ。いざやってみるとまあ大変。 書くと長くなるので大変だったことリストをダイジェストでお送りします。 ネルフィルターはコーヒーの粉になじませる “仕込み” が必要 ネルフィルターを使った後の...

コーヒーを604杯淹れた日 (珈琲博覧日2025 出店の記録)

2025年11月3日(月・祝)私たち澤井コーヒー本店は東海地区最大級のコーヒーフェス「珈琲博覧日2025」に出店し、10時~17時の7時間で604杯のコーヒーをご提供することができました。(ホット 576杯+アイス28杯) 自分たちもビックリな数字で、寒い中並んでコーヒーを買ってくださったお客さまや、珈琲博覧日の運営の皆さんに本当に感謝です。(公式に杯数は発表されませんが、聞いたところ出店者で最多杯数のようです) 杯数や売上など数字がすべてではないですが、やはりたくさんの方に飲んでいただけたことは嬉しく、去年よりお客さまとコミュニケーションがとれたことも含め楽しい思い出になりました。 noteはしばらく書いてなかったのですが、せっかくなので今回の珈琲博覧日を一出店者視点で振り返ってみたいと思います。 珈琲博覧日(はくらんび)とは? 名古屋市中区の久屋大通公園(Hisaya-odori Park シバフヒロバ+ケヤキヒロバ)に、東海地方の珈琲屋さんが大集合する1年で1日だけのイベント。4回目の開催となる今年は31店舗の珈琲屋さんが大集合しました。 昨年の初出店での反省 今年の「珈琲博覧日2025」は私たちにとって2度目の出店。昨年が初出店でした。 昨年もたくさんの方に来ていただいたのですが、とにかく待ち時間が長くなってしまったことが昨年のイベントを終えての大反省点でした。2杯ずつコーヒー淹れていたので、淹れても淹れても追いつかない状況。野外イベント自体が初めてという経験値の低さもあり、正直もう訳が分からなくなっていました(笑)。 しかもコーヒーを淹れることに必死すぎて、せっかく来てくれたお客さまとお話することもできず・・・。昨年はずっと怖い顔してコーヒー淹れてたと思います。 今年のテーマ「一度にたくさん&見てて楽しい」 珈琲博覧日2025で披露したネルドリップ 珈琲博覧日2024を経験して、今年の珈琲博覧日2025は「大量の珈琲を一度に淹れられる&お客さまが見て楽しめる方法」を考えました。一番手っ取り早いのは、マシンで大量に淹れることなんですが、せっかくの珈琲博覧日にマシンで淹れてポットから注いで “はいどうぞ” では味気ないし、淹れてる自分も楽しくないので。 そんな時、うちの在庫にあったこれが目に入りました。 これ、ネルフィルターなんです。しかも特大の特注品。私たちが喫茶店さんに卸している大型のネルフィルター。昭和時代に開業した喫茶店さんでは、馴染みのあるドリップ方法で、一部の喫茶店さんではいまでも現役。フィルターも定期的に仕入れているので、うちに大量の在庫がありました。 昭和23年創業の私たちだからできる昭和喫茶店式のネルドリップ。これなら一度に12杯淹れられる。しかもライブ感があって見ても楽しんでもらえる。 今年の博覧日はネルドリップに挑戦することが決まりました。2025年の春のことです。 大きなネルフィルターで淹れると香りの立ち方がすごい 準備編:ネルドリップ大変すぎ! 12杯淹れの昭和喫茶店式ネルドリップ。いざやってみるとまあ大変。 書くと長くなるので大変だったことリストをダイジェストでお送りします。 ネルフィルターはコーヒーの粉になじませる “仕込み” が必要 ネルフィルターを使った後の...

僕がこのお店を継いだ理由

僕がこのお店を継いだ理由

僕が継ぐか、廃業するか、の2択でした。 両親含めほぼすべての人は廃業だと考えていたようです。 ーーーーーーーーーー こんにちは、昭和23年創業の自家焙煎珈琲屋「澤井コーヒー本店」の3代目店主です。 ブログをご覧いただきありがとうございます。 今回は、自分がこのお店を継いだ理由について、読んでいただけたらうれしいです。 ーーーーー   元々あった別の夢 高校3年生の僕には「法律家(弁護士や検事、裁判官)になる」という夢がありました。 夢を叶えるため大学は法学部のみを受験し、大学入学後は司法試験を目指して勉強をはじめました。 が、早々にリタイアしました。(笑) 理由はなんとも怠惰なものですが(笑) なんせ勉強についていけない。サークル活動が楽しい。大学でできた友達と遊ぶのが楽しい。そんな調子で法律家への志はあっさりと消えてしまいました。誤解のないよう補足しておくと、家業を継ぐために法律家の夢を諦めたわけではありません。   「3代目はねえ 家業を継ぐために 夢を捨てたのではないんだよ 法律の勉強する気がなくなったのがさき 家業を意識したのが後 さわを」という順序ですね。 そんな調子で「将来何になりたい?」への答えがなくなった僕に、就活の時期がやってきます。 僕が継ぐか、いずれ廃業か。 大学3年生の年末、家業の社屋を兼ねている実家に帰省したとき、初めて「家業を継ぐ」ということを意識しました。 両親から何を言われたわけではなく「なんかふと思った」という感じでした。 当時家業は、代表である父と従業員さん2名、3人とも60歳を超えていて、新しく人が入る気配はなく、僕が小さいころ見ていた家業の活気と比べると、いくぶんか落ち着いた雰囲気がありました。父と家業の話をしたことはありませんでしたが「すぐではない未来のある幕引き」を予感させるには十分な雰囲気がありました。 前述のとおり会社の奥の住まいで育った僕にとっては、いつか会社を畳むことを想像するのは、自分の一部を失うほど寂しいものです。久々に帰省した当時の僕は、それはもうじわじわと感じたものです。   そんなとき、思いついたんです。 「僕が継いだらこの会社続けられるやん!(単純)」 かくして、後継ぎになることを決めました(笑) そうと決まれば両親に報告です。 僕「この会社継ぐわ」 両親「は?」 両親からすれば、まさに青天の霹靂であります。...

僕がこのお店を継いだ理由

僕が継ぐか、廃業するか、の2択でした。 両親含めほぼすべての人は廃業だと考えていたようです。 ーーーーーーーーーー こんにちは、昭和23年創業の自家焙煎珈琲屋「澤井コーヒー本店」の3代目店主です。 ブログをご覧いただきありがとうございます。 今回は、自分がこのお店を継いだ理由について、読んでいただけたらうれしいです。 ーーーーー   元々あった別の夢 高校3年生の僕には「法律家(弁護士や検事、裁判官)になる」という夢がありました。 夢を叶えるため大学は法学部のみを受験し、大学入学後は司法試験を目指して勉強をはじめました。 が、早々にリタイアしました。(笑) 理由はなんとも怠惰なものですが(笑) なんせ勉強についていけない。サークル活動が楽しい。大学でできた友達と遊ぶのが楽しい。そんな調子で法律家への志はあっさりと消えてしまいました。誤解のないよう補足しておくと、家業を継ぐために法律家の夢を諦めたわけではありません。   「3代目はねえ 家業を継ぐために 夢を捨てたのではないんだよ 法律の勉強する気がなくなったのがさき 家業を意識したのが後 さわを」という順序ですね。 そんな調子で「将来何になりたい?」への答えがなくなった僕に、就活の時期がやってきます。 僕が継ぐか、いずれ廃業か。 大学3年生の年末、家業の社屋を兼ねている実家に帰省したとき、初めて「家業を継ぐ」ということを意識しました。 両親から何を言われたわけではなく「なんかふと思った」という感じでした。 当時家業は、代表である父と従業員さん2名、3人とも60歳を超えていて、新しく人が入る気配はなく、僕が小さいころ見ていた家業の活気と比べると、いくぶんか落ち着いた雰囲気がありました。父と家業の話をしたことはありませんでしたが「すぐではない未来のある幕引き」を予感させるには十分な雰囲気がありました。 前述のとおり会社の奥の住まいで育った僕にとっては、いつか会社を畳むことを想像するのは、自分の一部を失うほど寂しいものです。久々に帰省した当時の僕は、それはもうじわじわと感じたものです。   そんなとき、思いついたんです。 「僕が継いだらこの会社続けられるやん!(単純)」 かくして、後継ぎになることを決めました(笑) そうと決まれば両親に報告です。 僕「この会社継ぐわ」 両親「は?」 両親からすれば、まさに青天の霹靂であります。...